ANMELDEN
「おめでとうございます。妊娠されていますよ」
産婦人科の診察室でそう告げられた瞬間、実里は言葉を失った。
「……本当に?」
笑顔の産婦人科医から、隣に視線を移す。
思わず笑いたくなった。
「絶対に妊娠してる」と病院へ連れてきた本人のくせに、広海は信じられないというように目を見開いていた。
それからゆっくりと広海は笑みを浮かべた。
「本当だって……」
広海の声は震えていた。
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診察室を出ると、二人は顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑い出した。
「私、お母さんになるんだね」
「俺は父親か」
何気ない言葉。
それなのに、声にしただけで喜びや気恥ずかしさ、少し擽ったい何かで胸がいっぱいになる。
病院を出ると、二人の手が自然に繋がった。
そのまま役所にいく。
母子手帳を渡されるのを待つ間も、二人の指は絡んだままだった。
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結婚して三年。
東條広海と東條実里は、周囲が羨むほど仲のいい夫婦だった。
広海は二歳年上の幼なじみだった。
勉強も運動もできる、実里にとっては兄のような存在。
そんな広海が自身の父親の死に涙した姿を見たとき、実里は初めて彼の弱さを知った。
この人を支えたい。そう強く思った。
——やっとか。
広海の妹で実里の親友である東條美渚にからかい混じりの祝福をされて二人は付き合い始めた。
実里には母がおらず、父と二人で暮らしていた。
その父が病で急逝したとき、世界は真っ暗になった。
一人になってしまった実里へ、広海は迷うことなく言った。
——結婚しよう。
——実里を一人にはしない。
まだ大学生の実里と、社会に出たばかりの広海。
だが、周りは誰も驚かなかった。
二人は常に互いが唯一無二で、「遅かれ早かれだよ」という美渚の感想は的を射ていた。
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結婚しても何も変わらなかった。
広海はこれまでと変わらず、どんなときも実里を守ってくれた。
最愛の父を亡くした苦しみも広海がいてくれたから乗り越えられたと実里は思っていた。
(子どもが生まれても同じ……ううん。もっと幸せになるだけ)
この人となら、どんな未来だって幸せだと実里は思った。
家へ帰ると、広海は真っ先に実里をソファへ座らせた。「今日は何もするな」
「そんなわけにはいかないよ」
「駄目だ」
真剣な顔で言われ、実里は思わず笑ってしまう。
「まだ数ミリくらいしかないんだよ」
「それでも俺たちの子どもだ」
広海はそう言うと、実里のお腹に触れた。
まだ平らなのに、その手はまるで壊れ物を扱うように優しかった。
「俺たちのところに来てくれてありがとう」
静かな声。
それから広海は実里を見つめる。
「絶対に幸せにする」
その言葉は、お腹の子に向けられただけではない。
実里にも向けられているのだと分かった。
胸が熱くなり、実里は何度も頷いた。
「うん」
涙が滲んだ。
気丈な性格が災いして、また泣くことが恥ずかしくなる。
「ホルモンバランスが乱れているんだよ」
泣いても仕方がない理由をくれた広海に感謝しながら、抱き寄せてくれた広海の腕の中で実里は泣いた。
◇◇◇
妊娠が分かってからの日々は、幸せそのものだった。
広海は社長である叔父・洋二に妊娠を報告すると、「子どもが三歳になるまでは定時で帰ります」と宣言した。
二人で赤ちゃん用品のサイトを見ながら、まだ気の早い話をするのが日課になった。
「名前、どうする?」
「まだ早いよ」
「早くない。候補を上げて絞り込むまでに半年もないんだぞ」
子どものように笑う広海に、実里もつられて笑顔になる。
「広海の名前っていいよね。雄大な感じ」
「実里の名前も可愛くて好きだ」
「それじゃあ、海とか空とか森とか、自然に関係する名前で可愛い響きの名前を探そう」
「いいな」
「男の子でも女の子でも似合う名前がいいな」
二人で候補を出し合っては笑う。
どれもまだ決め手に欠けたけれど、その時間が幸せだった。
ふと実里は窓の外に広がる夜空を見上げる。
(お父さん)
心配性だった父は天国から見てくれているだろう。
(私ね、幸せだよ)
広海と出会えて。
家族になれて。
そして新しい命まで授かった。
(この人と結婚して、本当によかった)
不思議なくらい温かい気持ちになった。
安心したせいか、急に眠気が襲ってくる。
「眠いか?」
「ちょっとだけ……」
そう答えたところまでは覚えていた。
気づけば広海の腕に抱き上げられていた。
「起きなくていい」
優しく囁かれる。
何度も抱き上げられてきた腕は、今も変わらず温かい。
広海は実里を寝室まで運ぶと、そっと布団へ寝かせた。
前髪を撫で、小さく微笑む。
「おやすみ」
その声を最後に、実里は深い眠りへ落ちていった。
◇◇◇
寝室の扉を静かに閉めた広海は、足音を忍ばせながらリビングへ戻った。
使用人には下がってもらったから、部屋は静まり返っている。
実里が残したカップに手を伸ばした——そのときだった。
テーブルの上に置いてあったスマートフォンが震えた。
午前零時を回った深夜。
画面に表示された名前を見た広海の表情が、わずかに変わる。
数秒の沈黙。
やがて彼は通話ボタンを押し、静かに耳へ当てた。
「……条件?」広海の顔が変わった。わずかに眉を寄せ、実里の意図を探るように見つめてくる。「大したことではないわ。ただ、その前に教えて」「何だ?」「私はどこで手術を受ける予定なの?」一瞬の間があった。「朝比奈総合病院だ」「へえ」実里は素直に驚いた。朝比奈総合病院。国内でも有名な大病院だ。もっと小さなクリニックで、人目を避けて中絶させるのだと思っていた。東條家の嫁が中絶したと知られないように。だが、違ったらしい。「キャンセルして」「……何?」「病院は私が決める」広海が黙る。明らかに納得していない顔だった。「言ったでしょう」実里は冷たく笑う。「死にたくないって」「……手術は安全だ」「分かっているくせに、分からない振りをしないで」声が低くなる。「私は死にたくない。そして――あなたを信じていない」広海の表情が強張った。中絶手術。どれほど安全だと言われても、絶対ではない。手術中の予期せぬ事故。容体の急変。もしそこで実里が死んでも、不幸な事故として処理できる。広海が疑われることもない。「そんなつもりはない」「そうかもね」実里は肩を竦めた。「でも、あなたの愛する女はどうかしら」「……何?」初めて、広海の声に明確な戸惑いが混じった。「浮気女に言われる筋合いはないけれど」実里は淡々と続ける。「彼女にとって、私は邪魔者じゃない?」広海は何も言わない。「私がいなくなれば、東條夫人の座は自分のもの。東條家の資産も、その影響力も……私にはよく分からないけれど、殺す価値くらいあるんじゃない?」
実里から話があると広海に伝えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。広海が屋敷へ戻ってきたのは、それから一時間ほどあと。二人はダイニングの大きなテーブルを挟んで向かい合った。部屋の広さに合わせたから、二人には広すぎるテーブルだった。だから、以前は隣同士に座ることが多かった。食事中は、広海が実里の皿を気にしていた。野菜を食べろだの、塩辛いものを食べすぎだのとうるさかった。以前は、向かい合おうとは思わなかった。距離を感じたくなかった。でも今は、その距離がちょうどいい。「体調は?」広海が口を開く。「最悪よ」実里は笑って答えた。広海の視線が、実里の手元へ落ちる。使用人が用意した紅茶。まだ一口も飲んでいない。「飲まないのか?」「ええ」「食事もしていないと聞いた」「そう」広海の眉がわずかに寄る。理由を探るような目。実里は思わず笑った。「分かっているでしょう?」分からないふりをする広海に、思わず咎める声が出た。自覚はあったようだ。広海は目をそらす。その反応がおかしい。「こうして見ると、まるで私があなたを虐めているみたい」広海は黙っている。目をそらしたままで。「離婚してあげるわ」広海が顔を上げた。驚いている。信じられないものを見るような顔だった。「何、その顔」実里は笑う。「まだ私があなたを愛していて、離婚したくないって粘るとでも思った?」「実里……」「あなたと同じよ」「……同じ?」咎めるような声だった。実里は呆れてしまう。「こんな生活して
泣き落として向かった近所の病院。最新鋭の設備ではないが、アットホームな雰囲気で、実里は何も不満はなかった。実里の様子を見て、広海もようやく安心したのだろう。ネット上の病院の口コミを見て、「実里は大丈夫だ」と広海は祈るように繰り返していた。自分を愛しているのだからと思えば、泣き落としとか、しなくていい苦労をしたことは忘れられた。.診察中、広海は片時も離れなかった。医者がただの風邪だと言っても広海は納得せず、血液検査まで受けさせられたことは今も恨んでいる。(ただそれを上回る恨みや憎しみが今はあるだけ)付き添いの広海が慌て、医者と患者である実里が宥めるという、笑い話のような診察が終われば、次は薬だった。処方箋を睨みながら、熟読していた。分からないことがあれば、スマートフォンで調べる。検索結果が複数の答えを出せば、秘書に連絡し、薬について調べろと言った。いま病院にいるのではないか、と秘書に呆れられていた。薬局では薬剤師を質問攻めにした。帰宅してからも、処方された薬の名前を一つずつ確認していた。「広海って面倒くさいね」呆れて笑った実里に、広海は平然と答えた。「実里のことだから当然だろ」.(あのときは……)嬉しかった。大切にされているのだと思った。愛されているから、ここまで心配してくれるのだと。――愛しているから。(そう……)実里はゆっくりと目を開けた。胸の奥が痛んだ。今度も、きっと同じなのだ。広海は徹底して、全てを自分で管理しようとする。実里はよく知っている。ただ、今回は実里のためではないだけで。(愛する女のために)実里との子どもを確実に消す。そして実里と離婚して。
【お願いします】高橋誠に送った文章を、実里はじっと見つめた。【了解しました】その言葉に力が抜けた。安心しかけた。だが。【やってもらうことがあります】「やること……」嫌な予感がした。けれど、聞かなければ何も始まらない。【何ですか?】返事はすぐに来た。【まず、中絶手術を受ける病院を、私が指定する病院にしてください】実里は眉を寄せる。【身代わりと入れ替わるために必要です】続けて説明が届く。手術当日。実里は『病院からの迎えの者たち』に連れられて病院へ行く。【護衛はついてきてもいいですが、別の車で来てもらうようにしてください】【途中、パーキングエリアに二回寄ります】(二回……)【護衛は警戒し、車を降りたあなたに近づくでしょう。殺される、助けてと、大きな騒ぎを起こしてください】【なぜ?】【二回目で、護衛があなたに近づけなくするためです】【二回目で、待機していた身代わりの女性と入れ替わってもらいます】【身代わりの女性が乗車の際、護衛に別人だと気付かれたら厄介ですから】失敗ではなく、厄介と言った。つまり、最悪の場合でも別の手を考えているのだろう。但し、病院だけはどうにもならない。(病院は、なんとかするしかない)【入れ替わったあとは、そこにいる協力者の指示に従い、一緒に行動してください】【協力者?】【高橋友梨、私の娘です】(……娘?)【娘も大地さんに深く恩を感じ、あなたの状況を知り、協力すると本人が言い出しました】【台湾での生活のサポートも娘がします】ここで娘のことを聞き続けても意味はない。【分かりました】【何か準備するものはありますか?】【ありません。新しい身分も
【身代わりになる妊婦が、あなたの代わりに中絶手術を受けます】画面の文字を見つめたまま、実里は固まった。続けて文章が送られてきているが、それを読むことができない。ようやく指が動く。【そんなことは駄目です】送信。すぐに既読がつく。【その間に実里さんは名前を変え、日本を出ることができます】実里は首を横へ振った。高橋誠はここにいない。だから見えるはずがないのだが、何度も首を横へ振る。【駄目です】すぐに続ける。【私の子どもを助けるために、他の人の子どもを殺すなんてできません】送信した瞬間、涙がこぼれた。命に優劣などない。自分の子どもだけ助かればいいとは思えなかった。誰かの犠牲の上に立つことなど、実里は受け入れられなかった。しばらく返事は来なかった。やがて、高橋誠から短い文章が届く。【実里さん】父の葬儀で、少しだけ会話をした相手。顔は朧げ。声も覚えていない。だからなのか、父親に呼ばれた気がした。【あなたは知らないだけです】実里は眉をひそめた。知らない世界。教科書では教えてくれない世界を、父親は実里に見せた。美しいオーロラの輝きも。汚いスラムの闇も。新たな世界を知るたびに、世界を知った気になり。世界を知った気でいると、また父親が新しい世界を実里に見せた。――実里が知らないだけさ。そう言って。【身代わりを依頼するのは、望まぬ妊娠をした女性です】【堕胎する手段もなく、産むしかない女性です】画面を見つめる。【そういう女性は、少なくありません】【私は何人も見てきました】【死産とするため、自ら階段から落ちる女性もいます】胸が締めつけられた。
三日目の朝。実里は部屋から一歩も出なかった。「奥様、お加減はいかがですか?」扉の向こうから使用人の声が聞こえる。声が震えている。この二日間の行動のせいか、実里は使用人たちに怖がられていた。「少し気分が悪いの」「でしたら……」「例の看護師も薬もいらないわ。眠りたいの。誰も部屋に近づかないで頂戴」そう返すと、使用人はそれ以上踏み込んではこなかった。気分が悪いことは、嘘ではない。胸はずっと重く、吐き気もあった。落ち着かなかった。なぜなら今日は、高橋誠から連絡が来る日だ。いつも通りを演じることなど、とてもできそうになかった。ベッドへ腰掛けたまま、実里はスマートフォンを見つめる。時計を見る。また画面を見る。メールの受信箱を更新する。何も来ていない。数分後。もう一度更新する。何も変わらない。(まだ……)何度繰り返しただろう。気づけば午前中が終わっていた。「奥様、食事をお持ちしました」昼食は部屋へ運ばれてきた。「そこへ置いておいて」扉の外で食器がぶつかる微かな音がする。音が止んだ。使用人の足音が遠ざかる。実里はわずかに扉を開き、誰もいないことを確認する。そして、トレーを部屋の中に運ぶ。実里は黙って食べ始める。味は分からない。それでも食べる。父のアドバイスだから。食べられるときに食べる。それが、生き残るための基本なのだから。.トレーを廊下に出して、食後のお茶を飲んでいるとき。スマートフォンが小さく震えた。実里は飛びつくように画面を見る。